ナハフ10 26か28のどちらか 福知山区
82/11 三河槇原 80系交換
夕闇迫る小駅で (ポーランドの蒸機)
北びわこ C57+C56
829レ DD51 「山陰」 フチにて
竜華区のEF15
竜華のEF15はこれまた見事に全部ブタライトで、プレート式ナンバーかつPS14を載せた58番と123番が目立つ他は、
写真の158番がかろうじて原型窓、
それ以外はまあ、
こんな感じの3桁後半のカマがゴロゴロって感じで、注目されるわけでもなく、あっさり消えてった感があります。
だって実際あんまり
カッコよくないっすよね、ブタライトになってしまうと。このパン切れ写真は、対向の103系の先頭から。見かけのスピードが予想以上に早くてね、「うーわ、速っ」って言うてる間にパン切れになったわけ(笑)。
保存機って、あんまり無いよねぇ、と思ってググってみると、結構あるようで少し驚いたのですが、それより驚いたのは、こちらのクエ28の前頭部。現存するのでしょうか???

それ以外はまあ、

だって実際あんまり

保存機って、あんまり無いよねぇ、と思ってググってみると、結構あるようで少し驚いたのですが、それより驚いたのは、こちらのクエ28の前頭部。現存するのでしょうか???

ブルトレ EF81 「富士」
EF65 135 岡山機関区
スロ81系 お座敷列車 ミハ座
ミハ座が何年に座敷に改造されたのか、ググってみましたがわからずじまい。
新大阪通過中。
Kano鉄道局さんによると、下関方から2両目が腰高だそうで、高槻通過中も、

京都進入中も、
なるほどその通り。
東京方の妻はこれ一枚。
箱の出っ張り具合が少し違うんですな。
最終運用がどんなだったのか調査しとりませんが、86年3月でゴハチが引退、「みやび」が登場してますんで、その直前かと。

Kano鉄道局さんによると、下関方から2両目が腰高だそうで、高槻通過中も、

京都進入中も、

東京方の妻はこれ一枚。

最終運用がどんなだったのか調査しとりませんが、86年3月でゴハチが引退、「みやび」が登場してますんで、その直前かと。

三河槇原にて 1222M 82.10.11
ドイツの蒸機 95型 95 1016-5
94年2月、初めて参加したPlandampfでの目玉が、この
95型。
タンク機かよ、ヘッ!
とお思いかもしれませんが、実は結構な人気なんですよ。
いつものWikiのにわか勉強によると、1922~24年に、当時のプロイセン王国鉄道でT20として45両作られ、西側の14両は1958年に引退、東側の31両のうち24両が重油焚きに改造され、そのうちの10両は1970年代にボイラーを載せ替え、とイロイロあったようですが、基本的に特定の山岳線用のカマだったんですね。
なんとなく、日本のE10に姿も似てます。
天気は半端ナシに悪いし、

撮る場所知らんので、
右往左往してるうちにやってきたりと、あまりいい写真を残せてないのが、いつものことながら残念です。
93年から95年に毎年2月前後にこのあたり(現役時代に活躍していた線)で

Plandampfしてたようですが、
このカマは1996年頃に火を落として
博物館入りしてます。

タンク機かよ、ヘッ!
とお思いかもしれませんが、実は結構な人気なんですよ。
いつものWikiのにわか勉強によると、1922~24年に、当時のプロイセン王国鉄道でT20として45両作られ、西側の14両は1958年に引退、東側の31両のうち24両が重油焚きに改造され、そのうちの10両は1970年代にボイラーを載せ替え、とイロイロあったようですが、基本的に特定の山岳線用のカマだったんですね。
なんとなく、日本のE10に姿も似てます。
天気は半端ナシに悪いし、

撮る場所知らんので、

93年から95年に毎年2月前後にこのあたり(現役時代に活躍していた線)で

Plandampfしてたようですが、
このカマは1996年頃に火を落として


C12 「すずらん」ロケ列車
DD51 福知山区バルブ
わが国鉄時代の山都のDD51並びにはチビリました。うち2両が500番代ってのもシビレます。撮影された83年8月といえば、飯田線のサヨナラがあったり、ロクイチの「平和」があったり(7月やけど)、大サロと品サロが前後してデビューしたりと、そんな年ですが、3年半後に訪れた時には、旧客はもちろん無いし、500番代なんて影も形もないし、貨物もタキの専貨だけやしと、ほんまにこのあたりの数年の差ってのは大きいです。
さて。
87年12月31日の、
福知山区。右は1190番。
福知山といえば、1178~1193という最終ロット集中配置組が幅を利かせ、昔から面白みが無かったんですが、この頃に車籍があるのは既に4ケタのみで、もうなんというか、カマ番には自然に興味が無くなっておりました。
今思えば、当時でさえ徐々に頭数を減らしつつあったわけですが、この頃が非電化幹線の動力車基地としての活気を感じられるギリギリの時代だったのかもしれません。
さて。
87年12月31日の、

福知山といえば、1178~1193という最終ロット集中配置組が幅を利かせ、昔から面白みが無かったんですが、この頃に車籍があるのは既に4ケタのみで、もうなんというか、カマ番には自然に興味が無くなっておりました。
今思えば、当時でさえ徐々に頭数を減らしつつあったわけですが、この頃が非電化幹線の動力車基地としての活気を感じられるギリギリの時代だったのかもしれません。
