ブルトレ EF65 PF 「なは」
登校前に「なは」を撮ってた時期がありました。
1120。

1121。
えらい現像ムラじゃ。
1122。

1123。

1124。
撮ってないし(笑)。
1125。

1126。

1127。

1127はもう一枚あって、
6月に撮ったこちらは、2両減車されてるようです。
最後の一枚を除いて86年4月~5月の撮影で、2カ月撮ったら飽きたみたいです(笑)。
←久しぶりにこちらから
1120。

1121。

1122。

1123。

1124。
撮ってないし(笑)。
1125。

1126。

1127。

1127はもう一枚あって、

最後の一枚を除いて86年4月~5月の撮影で、2カ月撮ったら飽きたみたいです(笑)。


キハ47 × 8連 武田尾
近所の図書館で、少し古い鉄道ファンを借りられることを知りまして。
キハ40系特集の2011年1月号を借りてきたんですが、何が驚いたって、888両の製造で、出版の時点で現存するのが849両だそうな。すごくないっすか? 首都圏を中心に国鉄ゆかりの車両が急速に消えつつある中で、驚愕の生存率ではないかと。
しかもラッシュ時の男鹿線の7両運転とか、芸備線の8連とか、なんとも華々しい運用が残ってるそうで。ま、逆に言えば当分車両的に注目されることはないのかもしれませんが。
電化直前の福知山線DCは、ご多分にもれず58・47一辺倒で、キハ47は4~5連が大半だったように思いますが、10時ぐらいだかの上りに一本だけ長い列車がありました。

8連。
同じ列車。

撮影時期の違いからか、こちらは
7連。
ローカルの普通列車というイメージが強いせいか、7~8連って妙な違和感がありますね。
キハ40系特集の2011年1月号を借りてきたんですが、何が驚いたって、888両の製造で、出版の時点で現存するのが849両だそうな。すごくないっすか? 首都圏を中心に国鉄ゆかりの車両が急速に消えつつある中で、驚愕の生存率ではないかと。
しかもラッシュ時の男鹿線の7両運転とか、芸備線の8連とか、なんとも華々しい運用が残ってるそうで。ま、逆に言えば当分車両的に注目されることはないのかもしれませんが。
電化直前の福知山線DCは、ご多分にもれず58・47一辺倒で、キハ47は4~5連が大半だったように思いますが、10時ぐらいだかの上りに一本だけ長い列車がありました。

8連。
同じ列車。

撮影時期の違いからか、こちらは

ローカルの普通列車というイメージが強いせいか、7~8連って妙な違和感がありますね。

457系 田村にて
EF81 142 長岡区
EF65 128 沼津区
沼津のロクゴと言えば、若番やプロー付きに加えてF型が混じり、注目度の高い配置区だったんですが、その中にポツンと一両だけ混じった3桁の128番は、ワタシにとってはサイコーにハズレガマでした。86年の話です。かなりマニアックな話なので、ゴハチのカマ番談義のように、「うんうん、そうそう」と理解していただける方はほとんどいらっしゃらないのでは、と想像するのですが、ゴハチで言うなら東京の148番みたいな感じだったわけです。
さて。
雪のチラつく須磨にて、84年2月。
高槻にて、配6981。84年5月。
よくある感じの貨物。84年6月。
86年8月。
86年10月。
同上。
87年3月。
岡山が最終所属区で2007年に廃車だそうです。

さて。







岡山が最終所属区で2007年に廃車だそうです。

韓国のローカル線④
マニ36 305 福フチ
豊橋駅にて 80系など 1982.10.11
チェコの蒸機 387.043
2002年6月 只見線 C11
保津峡を行く DD51+50系客車
EF65 PF カートレイン名古屋
ブルトレ EF81 123 「つるぎ」
キハ58 武豊線 1986年
117系 快速
EF81 143 長岡機関区
EF65 129 稲沢機関区
韓国のローカル線③
シナ座 品川区 お座敷列車
最後は水戸に移って「ふれあい」ってな名前をもらって茶色になったわけですが、その前身である
シナ座。ウィキペディアによると、水戸への転属が86年、廃車が90年と、意外に転属後は短かったんですね。パックがよく牽いてましたっけ。撮ったことないんですけど。
そんなことより、原口さんのコメント通り(いつもレス遅くてすみません)、なるほど3両雨樋の高いのが続いているような。
へー、なんて思ってたんですが、ちょっと気になるのが、こちらの写真では、
奥の3両が明らかに雨樋:高。
何が言いたいかって、2枚とも上り列車のケツ、つまりカメラを東京方に向けて撮った写真なんですよね。編成ごと方転するようなことがあったのか、それとも連結順序が変わったか? どちらもちょっと考えにくいんですけど、はて。。。。。
ちなみに上が83年9月、下が84年4月です。


そんなことより、原口さんのコメント通り(いつもレス遅くてすみません)、なるほど3両雨樋の高いのが続いているような。
へー、なんて思ってたんですが、ちょっと気になるのが、こちらの写真では、

何が言いたいかって、2枚とも上り列車のケツ、つまりカメラを東京方に向けて撮った写真なんですよね。編成ごと方転するようなことがあったのか、それとも連結順序が変わったか? どちらもちょっと考えにくいんですけど、はて。。。。。
ちなみに上が83年9月、下が84年4月です。

本長篠から豊橋へ 82.10.11
ドイツの蒸機 Weißeritztalbahn
配給電車 インレタ
本邦初公開、これが、
配給電車さんの、配給電車さんによる、配給電車のためのインレタの原稿です。
話がややこしいですが、配給電車さんが配給電車製作にあたり、くろま屋さんに特注されたものをお裾わけいただいたもの。
検査表記(四角の枠の中の「吹田工 50-3」)の日付が同じのが無いようにずらしてあって、なかなか遊び心が効いてます。
サイコーの出来で、使うのがもったいないぐらいですが、そうも言ってられんので、
切り刻む。
所属・定数。
ちょっとズレたか?
お尻。
形式:クモル24。キャーッって感じ(笑)。
ここまではいいんですけど、ATS表記とエンド表記が、

何度やっても、

うまいこと貼れまへん。

ご覧の通り、
リベットとまともに干渉してるからですが、可部線17米の時は無問題だったんですよね、リベットの上でも。GMのプラ、特にこのホビダスのクモハ11キットの側面はリベットが高い、早い話、表現が過剰気味だとは思ってたんですが、こんなに貼りにくいとは想定外でした。
ちなみにATS表記は同じくろま屋さんのS-304(17m旧国用)、エンド表記はキシャ会社さんのSP-33(同左)ですが、くろま屋さんのエンド表記はベース(台紙?)が硬くて、リベットが作る曲線に、より馴染みにくく、ほとんど何も転写出来ませんでした。
何度やってもインレタを無駄にするだけのような気がしますんで、このまま進めまする。かくもブザマな状態を見逃すのは信条に反するのですが、遠目だと
ほとんどわからんし、最近老眼が進行して、実際あまり気にならんかったりして(笑)。
やっぱりインレタ綺麗に貼りたきゃ、リベットは削っておくのが無難です。ええ勉強になりました。

話がややこしいですが、配給電車さんが配給電車製作にあたり、くろま屋さんに特注されたものをお裾わけいただいたもの。

サイコーの出来で、使うのがもったいないぐらいですが、そうも言ってられんので、

所属・定数。

お尻。

ここまではいいんですけど、ATS表記とエンド表記が、

何度やっても、

うまいこと貼れまへん。

ご覧の通り、

ちなみにATS表記は同じくろま屋さんのS-304(17m旧国用)、エンド表記はキシャ会社さんのSP-33(同左)ですが、くろま屋さんのエンド表記はベース(台紙?)が硬くて、リベットが作る曲線に、より馴染みにくく、ほとんど何も転写出来ませんでした。
何度やってもインレタを無駄にするだけのような気がしますんで、このまま進めまする。かくもブザマな状態を見逃すのは信条に反するのですが、遠目だと

やっぱりインレタ綺麗に貼りたきゃ、リベットは削っておくのが無難です。ええ勉強になりました。

雨の大井川 第2鉄橋
嵯峨オロシ DD51+50系
EF58 118 米原区 荷物列車
118番は米原機関区。

いかにもって感じの、

端正な顔立ちで、

好ましいカマでした。
このあたりは、

57.11の前の写真で、

父の写真ですね。

これは15時ぐらいの北陸からの荷レで、57.11で消えたスジ。
やはり父の撮影で、左の電柱にもたれて撮ってるのがワタシ。
例によってヘタクソ全開です(笑)。
中学の入学祝いにテフノンのズームレンズを買ってもらい、

撮影に励むわけですが、

もちろんそう簡単に
写真がうまくなるわけがない(笑)。
米原のカマは関東方面では撮りにくかったと聞きますが、

関西でも昼間に撮れるのは荷39レと「きたぐに」だけで、米原のゴハチは
下関方の顔の写真ばっかりだったりします。
84年1月29日の
荷39レ。
118の東京向きの顔は、
下関集結後のこの一枚だけですわ。
キレイだった米原のゴハチが下関転属後の僅か2カ月でみるみる汚れてゆくのは、
なんとも物悲しいものがありました。。。

いかにもって感じの、

端正な顔立ちで、

好ましいカマでした。
このあたりは、

57.11の前の写真で、

父の写真ですね。

これは15時ぐらいの北陸からの荷レで、57.11で消えたスジ。


中学の入学祝いにテフノンのズームレンズを買ってもらい、

撮影に励むわけですが、

もちろんそう簡単に

米原のカマは関東方面では撮りにくかったと聞きますが、

関西でも昼間に撮れるのは荷39レと「きたぐに」だけで、米原のゴハチは

84年1月29日の

118の東京向きの顔は、

キレイだった米原のゴハチが下関転属後の僅か2カ月でみるみる汚れてゆくのは、

