中部天竜疎開の80系 (その2)

今日は辰野側、偶数向きの写真を何枚か。
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申し上げるまでもなく、後に佐久間レールパークとなる場所なわけですが、個人的にはどうにもギャップが大きすぎて、うまくつながらなかったりします。

0198304_0055.jpg
お誂え向きのインカーブと申しますか、とても撮り易い状態でありました。

顔。
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ちょっと調べてみたんですが、車番わからず、です。。。

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18201さま、ご無沙汰しております。
中部天竜留置80系の編成は
←豊橋 
86300-80341-80365-86354
86347-80325-80314-86306
(本線)
だと思います、確か。

80系300番台

クハ86の顔は私のようなオヤジ世代にはとても懐かしいです。
昭和57年に飯田線で何度か乗りました。豊橋-豊川間と辰野-伊那市間だったかな。
2回とも300番台4連の絵に描いたような編成美でした。
運転台を覗いた時に、「電磁ユルメ」の動作ランプを初めてみたのが一番印象に残っています。
そういえば、山陽路を走っていた300番台は、終期はシル・ヘッダーつきの車両と塗り分け線を揃えるために、300番台本来の塗り分け線と高さが違っていたとか、いろいろ思い出します。

80系300番台の塗り分けの変化

>にしもとさん

80系300番台の腰板の塗り分けのかさ上げですが、まだ京阪神快速線で走っていた昭和38年ごろから始まっています。確かRP誌の80系特集で、淀川橋梁を渡る80系300番台主体の編成の塗り分けが高低入り混じっているのが確認できるカラー写真が掲載されています。当時80系の入場工場は吹田工場で、岡山運転所も入場は吹田工場だったため、高い塗り分けを継承しました。
もっと西の広島運転所と下関運転所の80系はどうだったかというと、幡生工場あるいは広島車両所では、「転入した車の塗り分けを引き継ぐ」方針だったようで、宮原、岡山からの転入車は高い塗り分けを、東日本からの転入車は低い塗り分けを継承していました。
また、東に転属した車も少数いて、低い塗り分けに変更されたことが確認されています。

七久保さん、
お久しぶりです。車番のアドバイス、ありがとうございます。奥のモハもメモされてるのはさすがですね。ワタシはガキだったんで、モハなんて写真すら撮ってませんです。。

にしもとさん、
「旧形国電ガイド」によると、80系は77年までは東京発さえあって、78年に一気に全国から姿を消したんですね。岡山区やら松本区やらのを模型で作りたい、といまだに夢想だけはしております。。

原口さん、
毎度正確な情報をありがとうございます。岡山の高い塗り分けもカッコイイですが、線が揃わないのもそれはそれでカッコイイんですよね。東に転属したのが低い塗り分けにされていたのは初めて知りました。

原口さま
詳細な解説ありがとうございます。以前より西日本と東日本の300番台は写真をみて、どうして塗り分け線が違うんだろか?と思っていたところです

管理人さま
昭和52年まで東京口に80系が顔を出していたのは覚えています。80系の定期急行の最後は「天竜」でしたね。都落ちした80系も最後は300番台が飯田線に集まり、昭和58年まで走りましたが、まさかスカ色の旧形より(ほんのわずかですが)早く引退するとは思いませんでした。
プロフィール

18201

Author:18201
模型は旧国、撮りは蒸機がサイコーとひとりごちる40歳。子供の服買うかみさんに渋い顔しつつ、いつ作るとも知れぬキットを増やし続ける二児の父。工作スピードが遅いのが自慢。 

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